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八十小路


 

*海岸への道
鎌倉が明治の文明開化の息吹きを知り、感じ、そしてその中に巻きこまれていったのは、明治22年6月11日、横須賀線開通 からである。大都会の東京、横浜とじかに結びついたのが、この土地にそれまで全く知らなかった、新しい生き方を教えることにもなった。永い間、鎌倉は古跡、名所の地として知られていたし、訪れる人の数も多かった。しかし、それらの人々は、つまりは物見遊山の人であり、通 り抜けて行く人たちであった。いわば遠いむかしの栄枯盛哀の跡を偲び、若千の感慨に浸れば満足して去って行く、それが永い間の鎌倉のすがたであり、在り方だったと云っていい。だが、鉄道が入ってからの鎌倉は急速に新しい面 を持つ土地として見直されて行った
それは、ここの気候であり、自然の風光であった。殊に広い砂浜を持つ由比ケ浜の風光は都会の人々をよろこばした。それはここが、当時最も新しい健康法として唱えられはじめた海水浴−文字通 りの「水浴」で、海水に浸って波に打たれ、皮膚をきたえるのが目的だから、「水泳」とは全然ちがうものだった−に最適の梅岸だったからでもあった。こうして古来、漁りの場としか考えられていなかった梅岸は、鎌倉の「新しい顔」に変って行った。明治20年に横浜の茂木惣兵衛らがこの梅岸に創設した「海浜院」という純洋式の保養所(おそらく海浜サナトリウムの嚆矢と思われる。)は、やがて数多く訪れる外人のためのホテルとなった。これも湘南地方での最初の洋式ホテルであったろう。このような変化、変貌は、しかし土地のものにとっては、「寝耳に水」ではなかったようである。というより地元では、海岸が「新しい看板」になることを予想していた。それは明治18年に大磯が海水浴場として評判になったことや、由比ケ浜に「海浜院」ができ、ここでも海水浴がはじまったことなどから生れた予想だったのだろうが。鉄道開通 の前年、鎌倉13ヶ村の戸長たちは協議して、鉄道開通に備えて鎌倉の道路の改修と4つの新道を開設することにした。その新道はみな海岸への道であった。即ち1つは材木座から長谷への「海岸通 」、1つは下馬から一ノ鳥居を通って海岸通に交る道(当時この辺は開墾され畑だった。)、1つは六地蔵から海岸めでの道(現在の「和田塚通 」)、最後の1つは長谷新宿から稲瀬川尻への道である。当時の村々の財政からすれば重すぎる負担だったが、辛抱して造ったこの道路は、予想にたがわず鎌倉の「新しい活力」海岸を生かす道路になった。そして鎌倉は保養地、別 荘地として生まれかわって行った。明治のむかしとは、さまがわりしてしまったとはいえ、先人が造ったこれらの道は脈々と明治の「こころ」を語っている。



鎌倉のなかの明治
その1「段葛」  その2「海岸への道」  その3「別荘」  その4「海のことなど」  その5「人力車 自転車」  その6「松のある風景」
鎌倉のなかの大正
その1「鎌倉劇場」  その2「白切符 青切符」  その3「鎌倉能楽堂」  その4「自動車」  その5「遊覧馬車」   その6「外人客」  その7「海浜博覧会」  その8「海軍さん」  その9「洋食屋」  その10「第二の変わり目」
鎌倉のなかの昭和
その1「提灯」  その2「めいた町」  その3「海から来る春」  その4「暗かったころ」  その5「市民座」  

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